前回、異常な委縮が科学教育の衰退を加速させている話題を取り上げ、コロナ下でそのその方向性が堂々と追認肯定できる条件がすばらしく整ってしまったことを述べました。もちろんコロナ下でも一定の努力がなされたのでしょうし、個々の環境によるといってしまえばそれまでです。しかし、未だに学校給食時の黙食から脱することができず、それが正義であるかのようなふるまいをする教員が一定勢力を持っている現実があります。コロナ自粛と科学教育は一見直接関係はないと思われるかもしれませんが、とにかく何もしないことが一番という気風のまん延と無関係ではないように思えるのです。あえてチャレンジせずに無難にやり過ごすという文化は、成長や進歩を伴いません。自分が成長しなくても周囲の人や環境もそうであれば変化を感じなくても済み、一時的な安定を感じられるのでしょう。実験や教材開発に取り組む先生とそうでない先生、やる気のある学校とそうでない学校の二極分化が進行してしまったのではないでしょうか。「子どもたちの10年後を考える…」で述べた通り、急速に進展する社会では昨日と同じ今日、明日も今日と同じということはなく、時代の流れからはあっというまに取り残されてしまいます。とりわけ学校科学教育の現場がそのような気風に支配されていることがいかに深刻なことかを意識できない大人が多いように感じられます。特に子どもたちにとって、身近な大人としての存在である学校教員がそういった文化に支配されているとすれば、それはそれは今そこにある危機と言わざるを得ないわけです。何もせず問題意識も持たず既定路線でミスしない人が出世しやすいという公務員的な社会には健全な発展は期待できない、という話しでした。